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    かけはし2021年2月15日号

ボクが地方出版をはじめた理由(わけ) 其の2


コラム 架橋



出版社という印刷会社で学んだこと

 ボクは就職活動もしないまま大学を卒業し、職安の紹介で地元にある「出版社」と名がついた印刷会社に転がり込んだ。なぜその会社に就職したかと言えば、答えは簡単。安直なようだが、前述した通り単純に出版社希望だったからだ。それにボクは学生結婚で、生まれたばかりの娘がいたから生活費を稼ぎ出すのは至上命題だったのである。工場の裏側に建てられた2軒続きの社宅住まい、額面8万5000円が初任給だった。たぶん社宅の家賃は5000円だったと記憶している。つまり社会保険や税金を引かれれば手取りは7万円台になってしまうのだ。
就職はしたものの右も左も分からないことばかり。B4、A5の判型おろか、印刷の仕組みなど分かるはずがない。それに教えてくれる人など一人もいなかった。印刷に関する本を読みながら版下と製版を中心に、それこそ見よう見まねで仕事を覚え、毎月数十時間の残業を黙々とこなした。その僅かな残業代がなければ親子3人、まともな生活はできなかった。
しかし、退職するまでの6年間に体得した印刷の知識と技術は、いま出版を生業とする上でそれこそ強力な武器になっている。印刷現場を知らない頭でっかちな編集者にならないで良かったと常々思う。

 事務所を開いて35年

 さて本題であるが、ボクが出版社を始めた理由(わけ)はただひとつ。無謀であるが印刷会社の将来性と就職試験の煩わしさを思えば、自分で出版社をつくってしまった方が簡単だと考えたからだ。家賃1万5000円の畳屋倉庫の2階を根城に、30万円を2人で出し合い購入したワープロ一台と、定規、カッター、ピンセットが今日の始まりだった。まったく資金も、事業計画もないままのスタートだったのだ。そのせいか、開店祝いならぬ設立祝いの席では、「この県で出版は無理。もって1年」と友人たちが真顔で心配してくれたことを昨日のことのように思い出す。
社名は編集プロダクションを意識して、「編集工房Z」と社名の頭につけた。それは当初から闇雲に出版を始めるのではなく、かつての伝手で印刷会社から制作などの仕事を貰いながら体力がついたら出版を始めようと考えていたからだ。そのため社内に電算システムを構築し、編集から組版、出力まで一貫して行える態勢を整えた。これは県内でも最も早いものだったと思う。
2、3年が経ち自費出版の受注も増え、何とか糊口が凌げるようになったころ出版した第1作が、全国労農大衆党と大日本生産党の武力衝突を描いた『曙光―実録「阿久津村騒擾事件」』だった。たぶん全国取次店の地方・小出版流通センターともこのころ取引を開始したのだと記憶している。
あれから35年。数えれば出版点数は500点を超えた。田中正造や足尾銅山関係のラインナップは小社ならでは。定期刊行物、記念誌をはじめ委託・自費出版は枚挙に暇がない。事務所も畳屋の倉庫の2階から街中のビルに移った。社員もボクを含めて7人の所帯に増えた。老眼鏡を掛け、腰を労りながら、図書目録を財産に地方出版の先輩諸氏を見習って喜寿の年まで頑張ってみようか。(雨)


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